LOGIN麻雀卓が所狭しと並び、麻雀牌がぶつかり合う小気味よい音、高揚した男たちの怒声、そして勝利の雄叫びが空間を満たしている。
王宮では聞くことのない、剥き出しの感情が渦巻く場所に、リリィは少しだけ恐怖を覚えた。貴族A
「リーチだ! これで終わりだ!」リリィは配膳をしながら卓を見てしまう。
一瞬だけ表情が変わる。
リリィ
「……」その打牌を見た瞬間、思わず口が動いた。
リリィ
「その一打は危険です」卓が静まり返る。
貴族B
「……は?」貴族A
「何だと?」リリィは慌てて頭を下げる。
リリィ
「も、申し訳ありません……出過ぎたことを……」しかし貴族Aは立ち上がった。
貴族A
「雑用係風情が、私に麻雀を教えるつもりか?」周囲の客も笑い始める。
「聞いたか?」
「牌も握れない雑用係が助言だってよ!」
「王宮を追い出された娘らしいぞ」
笑い声が広がる。
リリィは唇を噛み締めた。
リリィ
「……失礼しました」彼女はその場を離れようとする。
その瞬間――
貴族B
「ロン」貴族A
「……え?」貴族B
「倍満だ」場内が静まり返る。
貴族A
「な……」手牌を見る。
リリィが危険と言った牌こそが、放銃牌だった。
貴族B
「その牌さえ切らなければ、君の勝ちだったな」貴族A
「そ、そんな馬鹿な……」周囲もざわつき始める。
「あの雑用係……」
「当てたのか?」
「偶然じゃないのか?」
しかし貴族Aは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「まぐれだ!」
「たまたま当たっただけだ!」
「二度と口を挟むな!」
リリィ
「……はい」頭を下げて去るリリィ。
しかし、その後ろ姿を見ながら、一人の常連客が小さく呟く。
「いや……あれはまぐれじゃない。」
「一瞬見ただけで危険牌を見抜いた。」
「もし本当に実力者なら……」
「面白い娘が来たな。」
休憩時間。
リリィは一人、窓際で目を閉じていた。 喧騒から離れたこの場所でも、彼女の心は休まらなかった。 貴族たちの冷たい視線と、客たちの軽蔑の目が、瞼の裏に焼き付いている。「リリィさん、あまり無理すんなよ」
年配の従業員が、温かいお茶の入った湯のみを差し出しながら、そっと声をかけてくれた。
彼はこの雀荘で長年働いているベテランで、リリィが王宮から来たことや、麻雀を打てない事情も知っている数少ない人物だった。「ありがとうございます。でも……私は本当にここで必要なんでしょうか。麻雀が打てない私は、ここにいる資格なんてないんじゃないかって……」
リリィは|俯《うつむ》きながら、正直な気持ちを口にした。
「初めは誰だって慣れないもんだ。それに、麻雀が打てなくても、お前にしかできないことはある」
「私に、ですか?」
「ああ。麻雀が強いだけが雀士じゃない。麻雀を打つ人々のために尽くすことも、立派な仕事だ。お前は、この雀荘の空気をきれいに保ってくれる。客が気持ちよく麻雀を打てるように、静かに見守ってくれる。それは、誰にでもできることじゃない。お前のその静かさが、この熱気の中で心地よいって感じる客もいるんだ。それに、お前のような存在がいることで、この雀荘が持つ独特の熱気が、少しだけ和らいでいる。そんなふうに感じている客も少なくないんだよ」
彼の温かい声が、リリィの心の奥に小さな灯をともした。彼女は彼の言葉を何度も心の中で繰り返した。
休憩後、リリィは仕事を再開した。
掃除道具を手に雀荘の廊下を歩いていると、優雅なドレスをまとった貴族の女性たちの噂話が耳に入ってきた。「あら、あれが例の『牌を握らない姫』よ」
「王子様の寵愛を受けているらしいけど、牌も握れないなんて役立たずね。聞いた話じゃ、八百長をして故郷を追われたんだとか」 「コネだけで入ってきて、何ができるのかしら。王宮の恥さらしだわ」 「私たちの間では、誰も歓迎してないわよ。あの娘のせいで、王宮の格式が落ちるんじゃないかしら」リリィはその言葉を聞きながら、胸の奥が冷たくなった。
麻雀を打てないだけでなく、八百長という過去の汚点まで知られている。 自分はどこに行っても、過去の呪縛から逃れることはできないのだろうか。 彼女は聞こえないふりをして、足早にその場を立ち去った。 貴族たちの嘲笑が、背中に刺さるように感じられた。その日の夜。
宿舎の小さな部屋に戻ったリリィは、ベッドで両膝を抱えていた。
窓の外は漆黒の闇が広がり、遠くの麻雀牌の音が、よりいっそう彼女の孤独を際立たせる。「私は……何のためにここにいるの?」
涙をこらえながら、彼女は呟いた。
セディリオ王子に託された、この国を救うという使命。 しかし、何もできずにいる自分。 麻雀から逃げて、ただ雑用をする毎日。 本当にこれでいいのだろうか。突然、扉がノックされた。
「リリィ、入っていいか?」
声の主はカイルだった。
彼はセディリオ王子の近衛兵であり、王子の命を受けてリリィの護衛をしていた。 彼もまた、数少ない彼女の理解者だった。「どうしてここに……?」
リリィは驚きながらも、扉を開けた。
「少し、お前の様子を見に来たんだ。顔色が悪い。……お前が辛そうだからな」
カイルは静かに部屋に入ると、ベッドの端に腰掛けた。
彼の落ち着いた存在が、部屋の冷たい空気を和らげる。「誰にも言えないこともあるだろう。言いたくないことは無理に言わなくていい。ただ、俺はここにいる。お前の話を聞くために」
リリィはこらえきれずに、大粒の涙を流した。
「カイルさん……ありがとうございます。あなたがいてくれて、本当に救われます。私は……私、どうしたらいいか分からないんです。麻雀が怖くて、牌を握ることもできない。王宮の人たちからは役立たずと蔑まれ、雀荘の客たちからも邪魔者扱いされて……」
「わかっている。だが、お前は逃げずにここにいる。それが何よりも尊いことだ。セディリオ王子も、お前のことを信じている。焦る必要はない。ゆっくりでいいんだ。お前が麻雀を打てないのは、お前の心の防衛本能だ。それを無理にこじ開ける必要はない。時が来れば、お前はきっと前に進める」
カイルは黙ってリリィの背中をさすった。その温もりが、彼女の心を静かに満たしていく。
「ありがとう、カイル。……もう少し、頑張ってみます」
「ああ、その調子だ」
カイルは黙って頷いた。二人の間に、言葉はいらなかった。
翌日。
リリィは掃除を始めながら、小さな声でつぶやいた。「今日も頑張ろう……」
彼女の表情はまだ曇っていたが、昨日までの絶望は少し薄れていた。
年配の従業員やカイルの言葉が、彼女の心に小さな勇気を与えてくれたのだ。その時、雀荘で麻雀を打つ青年、ダニエルが彼女に話しかけてきた。
彼はリリィと同年代に見える、爽やかな笑顔の青年だった。「君、名前は?」
「……リリィです」
「俺はダニエル。よろしくな。君、雑用係なんだってな。牌も握れないんだって?」
「はい……怖くて、もう麻雀は……」
「ふうん。でも、麻雀が怖いなんて、俺には想像もつかないな。俺は麻雀が大好きで、麻雀を打つことが一番の喜びだから。でも、もしかしたら、君は本当の麻雀の楽しさを知っているのかもしれないな」
ダニエルの言葉に、リリィは少し戸惑った。
「どういう意味ですか?」
「だって、麻雀の楽しさを知らない人間は、麻雀に怖さを感じないだろう? 怖さを感じるということは、それだけ麻雀というものを深く知っているということだ。麻雀は、勝つことだけがすべてじゃない。牌を打つ楽しさ、仲間と卓を囲む喜び、それらを忘れてしまったら、どんなに強くても、それは虚しいだけだ。俺は、君がまた麻雀を好きになれる日が来ると信じているよ」
彼の言葉は、セディリオやカイルとはまた違った種類の温かさを持っていた。
麻雀を愛する者からの、純粋な励ましだった。リリィは彼に心からの笑みを浮かべた。「……ありがとう、ダニエルさん」
日々の苦難の中、リリィの心は少しずつ光を取り戻していった。
小さな出会いと、温かい言葉が、彼女の閉ざされた心を開き始めていた。 彼女の新たな物語は、まだ始まったばかりだ。雀荘の空気は、いつもよりも一段と張り詰めていた。煙草の煙が薄くたなびき、牌を叩く音とざわめきが入り混じる中で、ひとつの卓だけが静寂に包まれているように見えた。そこに座るのは、貧民街出身の見習い雀士、ミミ。彼女は額に薄く汗を浮かべ、険しい表情で牌を睨みつけていた。対局相手は中年の男。どこか貴族の品位を感じさせるが、その顔には冷酷な笑みが張り付いている。男の名はエドガー。王都の裏社会では名の知れた人物で、巧みなイカサマと容赦ない心理戦で多くの者を打ち破ってきた。「ミミ、お前の負けだな」男は余裕の声で言った。彼の表情には、ミミを|嘲る《あざける》ような|侮蔑《ぶべつ》の色が滲んでいた。ミミは焦ったように牌を動かしながらも、動揺が隠せない。彼女はエドガーの心理戦に完全に飲み込まれ、自分の打ち筋を見失っていた。「くっ!……こんなはずじゃ……」その時、リリィが卓の隅から声をかけた。「ミミ、冷静に。焦っても何もいいことはないわ」その声は、張り詰めた卓の空気を少しだけ緩める力を持っていた。ミミは顔を上げ、リリィの顔を見て、少しだけ落ち着きを取り戻した。「でも、相手の手が強すぎる……どうすれば……」ミミの弱々しい言葉に、エドガーは嘲笑を浮かべて割って入った。「雑用係のくせに、なかなかやるな。だが、そんな甘いもんじゃねえ。お前がどんなに頑張ろうと、所詮は貧民街のガキ。王都の麻雀の闇を知らずに、夢を見るのはやめな」エドガーの言葉は、ミミの心を深く|抉った《えぐった》。彼女の瞳から希望の光が消え、絶望の色が滲み始めた。リリィはその様子を見て、胸が締め付けられる思いがした。エドガーの言葉は、かつてリリィ自身が聞いた、そして麻雀を諦めるきっかけとなった言葉と重なったのだ。リリィは厳しい視線で男を見返した。「私が代わりに打つ」雀荘の|喧騒《けんそう》の中、その言葉は静かな衝撃を生んだ。客や従業員たちは、リリィの言葉に耳を疑った。「代打ちだと?お前が?」エドガーは|嘲り《あざけり》を隠さなかったが、その目は確かに驚いていた。牌を握ることをやめた伝説の雀士が、再び卓につこうとしている。その事実に、彼の冷酷な笑みにも動揺が走った。「そうよ。ミミはまだ未熟。今のままじゃ潰されるだけ。私に任せて。この勝負、私が引き受けるわ」リリィは毅然と席に着くと、改めて牌を手に
雀荘の奥、薄暗い休憩室。 リリィは木製の椅子に腰掛け、窓の外の庭園をぼんやりと見つめていた。 色とりどりの花々が風に揺れ、空に向かって鮮やかに咲き誇る。 その中心には、麻雀牌の形をした巨大な噴水が水を吹き上げ、太陽の光を受けて煌めいていた。 だが、リリィの胸の内はその美しさとは裏腹に、重苦しい暗闇に包まれていた。「牌を握らずに、ただ雑用として生きる……こんなはずじゃなかった。あの時、自分で決めたことだけど」 彼女は低く呟いた。 リリィの心は過去の失敗と罪の影に縛られ、自由を奪われていた。 八百長ですべてを失った、あの日の出来事が、彼女の心を常に締め付けていた。「本当にこれでいいのか、私……」そんな時、不意に軽やかな声が休憩室に響いた。「ねえ、あなた。雑用係のリリィさんでしょ?」 声の主は、薄汚れた服をまとった少女だった。 しかし、その瞳には生き生きとした輝きが宿り、決して屈しない強い意志を感じさせた。 リリィは驚き、警戒心を強くした。 王宮の人間や、この雀荘の客たちとは明らかに違う雰囲気を、その少女から感じ取ったのだ。「はい、そうですが……何か?」 少女は物怖じせずに笑みを浮かべた。「私、ミミ。貧民街からここに来た見習い雀士。どうしてもあなたに会いたくて来たの」 リリィは戸惑いの表情を隠せなかった。 貧民街の人間が、どうして自分のことを知っているのだろう。「なぜ、私に?」 ミミは真剣な眼差しで答えた。「噂を聞いたのよ。『牌を握らない姫』だって。みんなからは色々言われてるけど、私は違うと思う。あなたには誰にも負けない強さがある。だって、こんなに麻雀が盛んな王都で、牌を打たないなんて、並大抵のことじゃないでしょ?」 リリィはその言葉に胸がざわついた。(強さ……私に?)「だから、弟子にしてください」 ミミの声は真摯で、決して諦めない決意が込められていた。 リリィはその目を見つめ返しながら、自分の心の扉がゆっくりと開かれていくのを感じた。「弟子……?」「はい。私はまだまだ未熟。もっと強くなりたい。あなたの経験や技術を学ばせてほしい。あなたのように麻雀を知り尽くした人が、どうして牌を握らなくなったのか、その理由を知りたいんです」 ミミの瞳は熱を帯び、まるで炎のように揺らめいていた。 リリィは沈黙した。「私が教
雀荘の扉が開くと、熱気と煙草の匂いが一気に襲ってきた。 豪華な王宮の清らかな空気とはまるで違う、雑多で粗野な空気に、リリィは思わず顔をしかめる。 しかし、すぐに深呼吸し、背筋を伸ばして内部に足を踏み入れた。麻雀卓が所狭しと並び、麻雀牌がぶつかり合う小気味よい音、高揚した男たちの怒声、そして勝利の雄叫びが空間を満たしている。 王宮では聞くことのない、剥き出しの感情が渦巻く場所に、リリィは少しだけ恐怖を覚えた。貴族A「リーチだ! これで終わりだ!」リリィは配膳をしながら卓を見てしまう。一瞬だけ表情が変わる。リリィ「……」その打牌を見た瞬間、思わず口が動いた。リリィ「その一打は危険です」卓が静まり返る。貴族B「……は?」貴族A「何だと?」リリィは慌てて頭を下げる。リリィ「も、申し訳ありません……出過ぎたことを……」しかし貴族Aは立ち上がった。貴族A「雑用係風情が、私に麻雀を教えるつもりか?」周囲の客も笑い始める。「聞いたか?」「牌も握れない雑用係が助言だってよ!」「王宮を追い出された娘らしいぞ」笑い声が広がる。リリィは唇を噛み締めた。リリィ「……失礼しました」彼女はその場を離れようとする。その瞬間――貴族B「ロン」貴族A「……え?」貴族B「倍満だ」場内が静まり返る。貴族A「な……」手牌を見る。リリィが危険と言った牌こそが、放銃牌だった。貴族B「その牌さえ切らなければ、君の勝ちだったな」貴族A「そ、そんな馬鹿な……」周囲もざわつき始める。「あの雑用係……」「当てたのか?」「偶然じゃないのか?」しかし貴族Aは顔を真っ赤にして怒鳴った。「まぐれだ!」「たまたま当たっただけだ!」「二度と口を挟むな!」リリィ「……はい」頭を下げて去るリリィ。しかし、その後ろ姿を見ながら、一人の常連客が小さく呟く。「いや……あれはまぐれじゃない。」「一瞬見ただけで危険牌を見抜いた。」「もし本当に実力者なら……」「面白い娘が来たな。」 休憩時間。 リリィは一人、窓際で目を閉じていた。 喧騒から離れたこの場所でも、彼女の心は休まらなかった。 貴族たちの冷たい視線と、客たちの軽蔑の目が、瞼の裏に焼き付いている。「リリィさん、あまり無理すんなよ」 年配
王宮の夜は静かに更けていた。 豪華なシャンデリアの光が大理石の廊下を淡く照らし出し、窓の外からは涼しい夜風とともに遠くの噴水のせせらぎが微かに聞こえてくる。 しかし、その美しい光景の中にあっても、リリィの心は一向に安らぐことはなかった。 彼女の背中を押す重圧は日に日に増し、王宮の冷たい視線が刺さり続けていた。「また、あの子が廊下を通ったわね」 「相変わらず、まるで幽霊のように静かに……」 「まるで牌を握ることを拒否するかのように……あの“牌を握らない姫”って噂は本当らしいわ」 「外の世界から来たというだけで、何の才覚もない娘に王子の|寵愛《ちょうあい》を注がれるなんて、我々の面子はどうなるのやら」 貴族たちの囁きは、夜の闇に溶け込むと同時に、リリィの心中を深くえぐり続けた。 麻雀が絶対的な価値を持つこの世界で、牌を握ることを拒否する彼女は、異端でしかなかった。 その孤独を紛らわせるために、彼女はいつも夜の回廊を一人で歩いていた。 その足音が途絶えると、代わりに貴族たちの軽薄な笑い声が響き、彼女の心をさらに凍てつかせるのだった。そんな中で、彼女を見守り続ける人物がいた。 第一王子セディリオ。 言わずもがな、王宮で数少ないリリィの理解者であった。 彼は権威を振りかざすことなく、誰に対しても分け隔てなく接する穏やかな青年だった。 王子の|庇護《ひご》のもとにあっても、リリィにとってこの世界は決して優しい場所ではなかった。 しかし、セディリオは彼女の痛みを誰よりも知り、静かに支え続けていた。 ある晩、リリィはまたひとり、王宮の長い回廊を歩いていた。 大理石の床に反響する自分の足音が、彼女の孤独をいっそう深める。 その足音に混じって、もう一つの足音が近づいてくることに、彼女は気づかなかった。「……リリィ」 呼び止められた声は、セディリオだった。 彼の声は静かだが、確かな温もりが宿っている。リリィは振り返り、はっと目を見開いた。「セディリオ様……こんな時間に、何をしているのですか?」「それはこちらの台詞だ。この時間まで起きて、何をしていたんだ?」 セディリオは彼女の隣に並び、静かに歩き始めた。「散歩です。……考え事をしていました」「考え事、か。この宮殿は、夜になると
豪華絢爛な王宮の回廊に、リリィの足音だけが静かに響いていた。磨き上げられた大理石の床は、彼女の姿を鏡のように映し出す。窓の外に広がる庭園は、色鮮やかな花々が咲き乱れ、陽光を浴びて煌めいていた。その中心には、麻雀牌の形をした巨大な噴水が清らかな水を吹き上げている。この世界では、麻雀こそがすべてを司っていた。政治も文化も、日常の細部に至るまで。麻雀牌は単なるゲームの駒ではなく、力の象徴であり、運命の鍵だった。しかし、その美しさの裏に潜む残酷な現実が、リリィの胸を締め付ける。「リリィ、気をつけろ」背後から聞こえた低い声に、リリィは一瞬立ち止まった。声の主は、王宮警備隊の若い兵士だった。「貴女に近づく者は多い。王子様の庇護があっても、敵はいる。警戒を怠るな」リリィは小さく頷いた。「ありがとう。でも、私はもう怖くない。少しずつ慣れていくしかない」その言葉に兵士は静かに頷き、彼女の後ろから離れていった。王宮での生活は、一見華やかで恵まれていた。清潔な部屋、規則正しい食事、着るものに不自由はなかった。だが、その実態は凍てつくように冷たかった。貴族や他の臣下たちは、リリィを「役立たず」と嘲笑い、陰で|蔑《さげす》んでいた。「あら、噂の『牌を握らない姫』ね」広間の一角で、貴婦人たちのささやき声が耳に入った。「雀士としての才能が全てのこの国で、牌も握れないなんて、王子様のお気に入りだとはいえ、本当に情けない話よね」「外の世界から来たって話だけど、八百長で追放されたって噂もあるわ。そんな人間が、この聖なる王宮にいるなんて信じられない」「ねえ、知ってる? あの子が王子様の庇護を受けてるから、私たちも黙ってるけど、本当は誰も歓迎してないんだって」リリィは何も言い返さず、ただ俯いて通り過ぎた。反論しても無駄だ。ここでは麻雀の強さこそが絶対の価値であり、彼女のような「牌を握らない者」は不必要な存在にすぎなかった。王宮の廊下を歩く度に、冷たい視線や|囁《ささや》きが刺さる。彼女は心の中で何度も繰り返していた。(私に価値はないのか……?)だが、それでもどこかで、ほんの少しだけ自分を信じたい気持ちがあった。ある日の夕暮れ、リリィの部屋の扉がノックされた。「リリィ、少し話がある」その声は、まぎれもなくセディリオ王子のものだった。彼は優
東京湾の波の音が遠のき、視界が白に染まる感覚が全身を包んだ。 それは、深い海に沈んでいくような、あるいは無重力空間に放り出されたかのような、不思議で、どこか心地よい感覚だった。 全身の力が抜け、意識が遠のきそうになったその時、唐突に足元に硬い感触が戻ってきた。気がつくと、リリィは見知らぬ場所に立っていた。 先ほどまでの絶望と孤独が、嘘のように遠い記憶に感じられる。 眼前に広がるのは、果てしなく続く緑の大地と、幾重にも重なる山並み。 空は深い藍色で、地球では見たこともないような、巨大で鮮やかな月が浮かんでいる。 見慣れた東京の灰色のビル群とはまるで違う、息をのむような美しい光景だった。しかし何よりも異様だったのは、空中に浮かぶ無数の麻雀牌の彫刻群だった。東、南、西、北、白、發、中……。 無数の牌が、まるで意思を持ったかのように、星のように煌めきながら空中を漂っている。 一つ一つが手のひらサイズの宝石のように輝き、時にはゆったりと、時には速く、秩序を持って回っている。 まるで天球のように、その牌はこの世界の中心で永遠に回っているかのようだった。 その荘厳な光景に、リリィはただ立ち尽くすしかなかった。「ここは……どこ?」リリィは思わず声をあげた。 身体は軽く、宙に浮いているような感覚があったが、足元の草はしっかりと踏みしめられた。 夢か幻か、あるいは死後の世界なのだろうか。「お目覚めかな」背後から声がした。 振り返ると、そこには華麗な白い鎧を身にまとった若い男性が立っていた。 長い銀髪が風になびき、その顔立ちは整い、澄んだ青い瞳はどこか遠くを見つめているようだった。 まるで絵画から抜け出してきたかのような、現実離れした美しさがあった。「あなたは……?」リリィは警戒しながらも問いかけた。 あまりにも現実離れした状況に、まだ心を落ち着かせることができない。「私はセディリオ・ヴェルデンハルト、この国の第一王子だ」彼は静かに頭を下げ、その表情には傲慢さの欠片もなかった。「異世界マージャンディアへようこそ。ここは、麻雀こそがすべてを司る世界だ」セディリオの言葉に、リリィは混乱した。「麻雀が支配する世界……?」「そうだ。この国のあらゆる政治、経済、社会は、麻雀の勝敗によって決まる。勝者は”ジャンスター”と呼ばれ、法律を